「明細帳に慶長十七年(1612)二月に社殿を再建とある」というから、創建は江戸時代よりさかのぼる。社号標が「神明社」と「熊野社」となっているこれは、『尾張志』(1844年)に、「神明ノ社 北一色村にあり 境内の末社に権現ノ社 秋葉ノ社あり」(権現社が熊野社のこと)もともと熊野社が先にあって、あとから神明社が勧請されたという話もあり、熊野社も大事にしていこうという表れと思われる
境内社として、熊野社、秋葉社、津島社、洲原社の他に、金玉稲荷社と大海龍神社と御霊社が有りやや雑然とした印象で、整理がつかないまま歴史が積み重なった感じがする。神社の歴史は紆余曲折を経ているので、雑多な感じというのは、それはそれでひとつの個性と思われる。
津島神社は古くは津島牛頭天王社と申し今日もなお一般に「お天王さま」と尊称されております。大神は国土経営・産業開発にお力を致され民生の安定に限りないご仁慈を垂れさせられた御神徳は広大でありますが、わけても津島のお社は人の身に起こる災厄と疫病(はやりやまい)除けの守護神として、また授福の大神としてあまねく世に知られて居ります。
正一位洲原白山ともいう。白山登頂に至るまでの美濃馬場からの前宮であり、長瀧白山神社・白山中居神社とともに白山信仰の対象である。豊作、厄除け、夫婦和合、子授けなどに利益(りやく)があるという。現在でも田畑に蒔く御砂や田畑札を受けに遠方より代参者が訪れお洲原さん、洲原大神様として親しまれている。
ほとんどの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の遠州秋葉山秋葉山本宮秋葉神社と越後栃尾秋葉山の秋葉三尺坊大権現別当常安寺の二大霊山を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない。
那智大社〈那智〉の祭神である熊野権現の勧請を受けた神社のことである。熊野詣の盛行や有力者による荘園の寄進、熊野先達の活動により全国に熊野信仰がひろまったことにより、熊野三山の祭神を勧請した神社が全国に成立した。
金玉稲荷は金玉稲荷大明神といい「稲荷」の語源は稲生り(いねなり)とされており、というのはそれが転じて「いなり」となり「稲荷」の字があてられたといわれている。また「大明神」というのは、正一位・従一位の神階をもつ国内鎮守の神
龍神様は水の神様で、天候や海流などさまざまな自然現象を操るとされています。 自然霊の中でも最強の力を持ち、姿かたちがなく、天地を自由に動き回り、風や雲を動かし、雨や雷を操ると言われている神様です。 発祥は中国ですが日本でも古くから信仰しており、各地で龍神様をお祀りしている神社が見られます。ご利益は、金運・仕事運アップ、病難除去・災厄除けなどです。
「ごりょう・みたま」御霊とは疫病や戦乱などで非業の死を遂げた人の霊のこと。古くは奈良時代末から平安時代にしばしば疫病が流行しそれを鎮めるために祀ったのが御霊社である。当陣社の由来は定かではないがおそらくは戦傷軍人の霊を祀ったのではないかと思われる。
境内には名古屋市指定保存樹クスノキが7本有ります。樹齢が最も古いクスノキは本殿社の東側に樹勢のクスノキと思われる。樹齢は不明です。幹の太さから推測し数百年はと思われる。
愛知神明社の蕃塀は、大正10年(1921)に名古屋市西区東枇杷島の石工荒木弥助によって製作されたものである。これまでに確認された石工荒木弥助の手による石造蕃塀は全部で14例が存在する。本蕃塀のように単龍紋の中央に扁額を配置させるものは珍しいと考えられ、荒木弥助の作品の一つである尾崎白山社の蕃塀(1920)に認められる程度であった。扁額を持つ単龍紋の欄間部は、大正10年前後の荒木弥助の作風の特徴と言えるのかもしれない。
文久年間(1861年から64年)長年苦しめられてきた村の水害をくい止めるため、私財を投じて用水路を開いた「安井徳左エ門」の偉業に対して昭和3年に顕彰碑が建立された。この用水路は「徳佐川」と呼ばれ、また神社北に架かった橋を「徳佐橋」と呼んで彼の徳を偲んだ
徳佐橋(徳佐川)の詳しくは、 @kawtkyさんによる徳左川 – 大名古屋暗渠録 (ankyo.nagoya) をご参照願います。
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